地下室の手記 13枚目
「開錠!」
威勢のいい掛け声で扉が開く。警察官が手錠を持って立っていた。
「取り調べするから」
昨日深夜まで及んだ取り調べというものは、精々私の身の上を語っているに過ぎず、事件そのものの細かい話はしていなかった。私が留置場で生活する上で、徐々に取り調べにて事件を明らかにしていくつもりらしい。
私は扉を出てベストを着せられ、手錠を掛けられた。手錠を掛ける際、見るからに不慣れな警察官が私の腕の肉を同時に巻き込んだ。大して謝りもせず掛け直した。手錠を掛けられるのは私の気を重くさせた。
手錠をした後はベストと手錠を紐で通した。犬のリードの役目をしている。
隣の部屋へ移る。移動する際鍵を開けて扉を開けるが、鍵を開けるところは見ないようにと言われた。これは通常の檻に入る時も同様であり、少しでも鍵の仕組みや回す方向などを知られないようにするためであろう。
取り調べは留置場の世話役の人では無く、別の人に代わった。
逮捕された直後に取り調べをした部屋ではないが、作りは同様の小さい部屋に連れられ、手錠を外される。
外した手錠は椅子につけられる。ベストと手錠が紐で繋がっているため、逃げ出すことはできない。
「始めようか」
30代くらいの警察官がそう切り出した。
地下室の手記 12枚目
「じゃあ、部屋を変わろうか」
再び眼鏡の警察官に言われた。
この4畳の狭苦しい部屋が自分に充てられた部屋だと思っていた。
あまり名残惜しくも無いが、一々毛布を持って移動するのも面倒だった。
新しい部屋は6号室で3人部屋だった。3人になったからと言ってその分部屋が広くなる訳でもなく、精々5畳と少しだった。
部屋の奥に座っているのが30~40代くらいの人で、雰囲気でこういう生活が長いのが感じられた。ここでの生活を熟知しているような素振りで筋トレをしていた。
もう一人は比較的年齢が上の方で、60代くらいに見られた。私が入って来た時「こんにちは」と声をかけた。私も適当に返事し、入口に最も近い場所に座った。
一人部屋は気楽で良かったが、3人一緒になってより不安が強くなってきた。彼らがどの様な罪を犯してここにいるのかは分からないが、暴力的な事件だった可能性もあったからだ。
ただ、世間一般から見たら私も彼らと同じなのだろう。
私は2つの人型の鏡を見ながら自らが堕ちたのだと悟った。
地下室の手記 11枚目
「君に弁護士をつけることができる」
そのように眼鏡をかけた警察官は言った。
弁護士か。彼女に罵声を浴びせたLINEの文面は、逮捕された時に私が指さしたものの写真を撮られている。何を弁護するというのだろう。
ただ、私はこの事件がとても大きな有罪判決になるとは思えなかった。
「国選弁護人か私選弁護人か選んで欲しい」
小学生の社会で習った言葉を学校以外で使うとは思わなかった。日本の教育は素晴らしい。
「皆さんどちらの弁護士さんをつけておられるのですか」
何となく周りに合わせたかった。碌に顔も見たことが無い人達だけれども。
「ここにいる人達は国選が多いね」
それはそれで意外だった。何だかんだ罪を軽くしたいなら私選にするものだと思った。
ただ、実際に国選か私選かを判断するのは自分では難しかった。そもそも国選にしても私選にしても弁護士であることは変わりなく、本質的にはお金を払うか払わないかの違いだけだった。何か権限が異なるといった明確な差異は無く、要は弁護士のやる気の問題だ。少なくとも私はその時そう認識していた。そしてそのやる気の差は、今回の事件ではあまり反映される余地が無い様にも思えた。
幾つか罪を犯して両者を比較する機会があれば別だが、残念ながらそういう機会に恵まれていない。
暫く迷っていると警察官が再び声をかけた。
「判断するにあたって、君の貯金額も知っておきたい」
警察側の判断基準としては、貯金額が50万以上あれば私選にすると言うのが一般的らしかった。実際に書類に自分の貯金額を記入するところがあった。
「株は資産に含みますか」
またややこしい問題ではあるが、私は貯金額の大半を株券に変えていた。株を売れば50万はあるが、現金としてはあまり持っていなかった。
警察官は少し考え言った。
「そういうのじゃなくて直ぐに引き出せるものがいい」
彼は株のことは詳しくないのだろう。株を現金に変えるのはすぐできるのだが、あえて言わなかった。結局私は貯金額として数万円程度の額を記入し、国選弁護人をお願いすることになった。
弁護士は早くて今日の夜か明日にはこちらに来るという。国選弁護人を選んだ事への一抹の不安をひた隠し、その時を静かに待った。
地下室の手記 10枚目
飯も食べた。洗顔もした。髭も剃って、風呂も入った。
それでもまだ午前10時を回ったくらいだった。
何を、すればいいのだろうか。
これが一体いつまで続くのか、考えられなかった。
1日を乗り切ることすらできる自信が無かった。
家にいたら退屈でも退屈なりに時間はすぐに過ぎていっていただろう。
休日ならこの時間でも惰眠を貪っているかもしれない。
しかし今は風呂にも入って目が覚めてしまった。ゆっくり眠る様な気分でもない。
普段だったら何をしていただろう。
テレビを見たり、パソコンでネットの海を泳いだり、買い物に行ったりできた。
そういえば来週はテストもレポートもある。
昨今の単位不足の中、辛酸を嘗めつつ大学図書館の机に噛り付いて、埋まっている単位を掘り起こしていたかもしれない。
そういった普段の無駄にしていた、無駄だと思っていた時間ですら、今となっては価値のあるものの様に思える。
唯一の救いとなるのは本であった。
朝運動に行くのと同時に、本棚から3冊まで同時に借りることができる。
私はこのやることの無い長い長い夏休みを、読書をして過ごすことが決まった。
本棚は布団を戻す押し入れの側に1つだけある。
6段になっており、1番上はハードカバーの本。2,3段目は文庫本で、私はここから3冊取った。留置場にいた際にどの順番でどの本を読んだかは正直覚えていないが、一番最初に読んだのは湊かなえ作『白ゆき姫殺人事件』だった。残り2つは東野圭吾の作品だっただろうか。『探偵ガリレオ』と『流星の絆』だったように思う。
本棚の構成として、全体的に推理小説物が多かった。
ハードカバーの本にもそれは当てはまるが、たまに『君たちはどう生きるか』の様な留置場にあって然るべき本も存在していた。
4,5段目は漫画だった。古い漫画が多く、1日3冊という制限の中で早く読み終わってしまう漫画を手に取るのは勇気が必要だった。私は留置場にいる間は一度も漫画を読まなかった。そもそも活字の方が好きだった。
6段目は外国人のための英語の本だった。こちらも殆ど見向きもしていないが、私が外国人だったらここでの生活は耐えられないだろう。それくらい本の数が少なかった。また、辞書の様なものも6段目に押し込まれていた。
全ての本のカバーは外されていた。何かを檻の中に隠し持つことが出来ないようにしてあるのだろう。加えて本には図書館などでよく見られるような印で「○○警察署」と刻印してあった。正直こんなところから本を借りたくは無かった。
私は『白ゆき姫殺人事件』を手に取った。なるべくゆっくり読むように心掛け、一文一文を咀嚼し反芻した。タイトルから分かる通りこちらも推理小説であるが、作中に「警察」の文字が出る度に嫌気が差した。
彼らは自分の職務を全うしているだけであるが、今回の出来事で私は心から警察が嫌いになっていた。ただの逆恨みであることは重々承知しているが、感情というものは湧き出てくるものだから仕方がない。
純粋に推理小説が楽しめない気分になっていたが、それでもどうにかして読み進める。
その時、その忌々しい警察官が錠を開けた。
地下室の手記 9枚目
「自弁頼む?」
知らない言葉を当たり前のように使わないで欲しい。
詳しく聞くと、お金を払うことでお昼ご飯をグレードアップさせることができる様だ。
こんな逮捕された直前に昼飯を良いものを食べようと考える奴がいるのだろうか。呑気なものだ。
その他にもお菓子としてビスケットやらオレンジジュースやらを頼むことができるらしい。最終的なお金は留置場を出る時に払うという。私はどれにも魅力を感じることができず断った。昼飯なんて、何でもいい。
逮捕されて一夜明けた。洗顔だったり朝飯だったりは何も考えなくても必要最低限の事として行動できたが、それらを終えてしまうと何をしていいのか分からない。
今頃みんな大学に行っているのだろうか。今まで自分がいた場所を遥かなる低みから見物するのは胸が締め付けられた。友達が特別いるという訳ではなくあまり心配されない事や、もうすぐ春学期が終了して夏休みになるため大学の知り合いはそこまで気に留めないということが、せめてもの救いだった。
何故自分はこんなところにいるのだろう。今日は大学で授業がある。
逮捕される直前までやっていたレポートを提出しなければならない。
パソコンの画面に映っていた数式を見て、警察官は全然わからないなどと言う。何故か馬鹿にされた気分だった。
「変な気起こすなよ」
逮捕された時に言われた言葉が思い返される。
私を勉強のし過ぎでおかしくなったと思われている。爆弾を作った奴とも同じにされた。
理系でそこそこの学歴というだけでちょっと変わった目で見られる。物理やら化学やら数学やらをしていると尚のことだ。私は爆弾なんぞ作れない。
爆弾が作れればよかったのだ。そしたらそれ相応の対応である。
皆が勝手に期待をして落ち込んでいく。
これほど必死に生きている奴の足を掴んで面白いか。
大学に行ったら私より賢い人がたくさんいる。
彼らは逮捕されるほど馬鹿じゃない。理論物理を左手で解くような奴らだ。
私の臆病な自尊心と尊大な羞恥心に気持ちが逸る。それを身動きできない檻の中で押さえつけるのは私にはできなかった。頭の中に考えが浮かんでは消えていった。
地下室の手記 8枚目
「今日は風呂の日だから」
そう警察官が言った。「今日は」という言葉で察するものがあった。
この留置場では月曜日と金曜日に風呂に入ることが出来る。私が逮捕されたのは月曜日だったため、初日に入ることができた。
自分のタオルと、洗顔の時に使った石鹸を持って風呂に入る。
シャンプーはリンスが入っているものが渡されたが、いつもシャンプーとコンディショナーを別々に使っていた私には物足りなかった。
時間は15分と決まっている。浴槽に浸かる時間は殆ど無さそうだ。
折角の風呂だというのに忙しない。加えて浴槽の扉の先には警察官が見張っているのだ。裸を見られてどうという事は無いが、落ち着いて湯を浴びることはできなかった。
浴槽の蛇口からは絶え間なくお湯が出ている。留置場にしては贅沢な使い方であるが、十何人もの人が同じ風呂に入るとなると、常にお湯をためようとしなければ無くなってしまう。
シャワーを使って体を流す。が、お湯が出ない。
仕方なく湯舟を溜めるために使われている方のお湯を止めてもう一度シャワーの蛇口を捻る。今度はお湯がしっかり出てきた。
シャワーはヘッドが天井に固定されているもので、体の隅々まで洗い流すことが出来ない。衛生的にはこちらの方がいいかもしれないが。
10分くらいで髪と体を洗う。足元の方は上手く流せないが、そのまま湯舟に使った。このための湯舟だったのだろうか。
15分で着替えまで済ませる必要があるため急いで出る。
着替える下着は無いため、留置場で貸し出してある下着を使った。
私にとっては毎日の風呂の延長であるためいつもと変わらないのであるが、これから3日間風呂に入ることができないと思うと憂鬱であった。
地下室の手記 7枚目
「運動の時間だよ」
そう言って警察官は施錠されている檻を開けた。
運動と言われても運動をする様なスペースも無ければすることもなかった。
聞いてみると、裏口のような場所に出て運動をするらしい。
運動は何をすればいいのかと頭の悪い質問をしたが、返ってきた答えも頭が悪かった。
「爪切りとか、髭剃りとか」
どこが運動なのだ。もっとこう、あるだろう。
その裏口の様な場所に出てみると、12,3畳程度の場所に茣蓙が敷いてあった。日差しは入ってくるが、上部には格子が嵌め込まれており、脱出はできない。
確かに、個人で簡単な体操くらいはできるかもしれないが、それは別に室内でできないという訳では無い。
勝手な解釈をするならば、外に出て新鮮(かどうかはわからないが)な空気を吸って体操をしたり、ゴミが出る様な爪切りや髭剃りもまとめてしてくれということらしい。
髭剃りは2つあり、使った後はアルコールで拭いて元に戻す。この時には例のちり紙が使われた。私は爪を噛む癖があるので爪切りは一切使わなかった。幾つあるのかも知らない。
先客が1人。髭を剃っていた。
茣蓙から立ち上がって、体を捻っている。
私は社交的ではないので、自分から話しかけることは無かった。
25分という持ち時間が与えられているが、私は簡単に髭を剃って5分程度で部屋に入った。
前の人が使ったアルコールのせいか、口の周りがひりひりした。